「あ」


小さくサチが声をあげた。
人込みの中を振り返る。
拾い上げたのは手帳。
黒い布のようなカバーがかかっているが、何の布地かはわからない。この地方特有の物かもしれない。
端部分に緻密な細工の金属が取り付けられている。高価なものだという事は容易に見てとれた。
この手帳が落とされたのはたった今しがただ。ばさりという音が聞こえたから。
ちらりとだが服が見えた。まだこの通りを歩いているかもしれない。
「サッちゃん?」
アンナが後方で立ち止まったままのサチに声を投げた。
「ごめん――落し物!」
手帳を掲げてそう言うと、サチはそのまま逆走し始めた。
とはいえ人が非常に多い。
市場を貫く目抜き通り、どこを見ても人、人、人。
なんでよりによってこんな道で。途中で横道にでも入られていたら絶対に見付からない。
それでも諦め悪く首を伸ばす。
「――――あ」
あの色。
―――――いた!
だっと駆け出す。ここで見失ったらもう見付からない。
どうにか人の目を縫って前に進む。少しずつ目標の服が近付いてきて―――手を伸ばす。
「あの――・・っすいません!」
腕に触れるのと同時に声を掛ける。
振り返った顔は、いくつか年上と思われる青年だった。
弾んだ息を抑えるよう努めながら言葉を継ぐ。
「えっと・・これ、落としませんでした?」
手帳を差し出しながら言う。
が、
・・・・・
・・・・・・・・
――目の前の人間は微動だにしない。

・・・え・・あれ・・―――人違い?

珍しい色合いの服だったのでほぼ確信を持って声を掛けたのだが、全く反応が無い。
―――ただただサチを凝視するばかりだ。
うわ、どうしよう!
サチが内心で冷や汗を流す。
こんな立ち止まっては迷惑だろう人の流れの中で引き留めてしまった。
うわあなんて言って謝ろう―――
「サッちゃん、見つかったー?」
掛けられた声に振り返ると、サチの後を追って引き返してきた皆が、すぐそこまで歩んできていた。
声を掛けたセンジュを始め面々の顔を見てサチがう、と詰まる。
勢いのまま駆け出して挙句に人違いって間抜けすぎるだろこれ。ていうかこの手帳どうしよう?どっか届ける所・・警察ぽい所あるのかしらここ。うわーマヌケだ本気で。ってかそんな事考えてる場合じゃなくて。
サチが埒もない事をつらつらと考えていると、
がっ!
「へっ!?」
サチがびくっとして声を上げる。
目の前の青年に突然掴まれたのだ。手帳ではなく、それを持った自分の手を。
思わず手帳を落とす所だった。危ない。
そんな考えがちらりと掠めるが、やはりそんな事を考えている場合ではなく。
まさか怒られる!?
―――という思考に達する前に、青年から言葉が発せられた。



「―――――結婚してくれ!!」



ぴしっ。


―――という幻聴が聞こえるほど、全員が一斉に固まった。


完全に思考停止したサチの右手から、折角拾い上げられた手帳が再び地面へ吸い寄せられ。
ばさり、と落ちた。









「サーチーおっはよー!」
がつっ!!
「・・・・・・・・・・・・・」
・・・サチの手がふるふると震えている。
無意識に突き刺した箸が卵を突き破り、皿にぶち当たった音だった。
「箸折れるわよ、サッちゃん」
横のアンナがさらりと言った傍から、
「サーチ、今日の朝ごはんはなんだい?他に食べたいものがあったら何でも持ってきてあげるよ〜」
背後の開いた窓にもたれて声を寄越す青年。
箸を握る手に更に力が篭る。かなり丈夫そうな箸だが今なら折れるような気がする。
「大丈夫心配しなくてもちゃんと食べさせてあげ」
「いらんわ―――!!」
とうとうサチが声を張り上げ、そのまま椅子を倒さんばかりにして駆け出した。
逃げた。
部屋の中の全員が心の中で呟いた。
「あ置いてかないでよ〜」
それを追って青年が窓を離れる。
両者の足音が遠ざかるのを聞きながら、ジゾウがぽつりと落とした。
「・・・・あれは、大変だな・・」





『―――――結婚してくれ!!』

―――この発言にしばし固まっていたサチだが、相手が顔を寄せてきたのに気付いて―――思い切り蹴り落とした。

青年は、通称「若旦那」。
歳はサチよりも2つ上で、この街の有力者の息子であるらしい。あの手帳が持ち主の年齢にそぐわぬ高価なものであったのも頷けた。
そう、結局手帳は結局若旦那のものであったのだが。
「・・・なんであの時手帳を視界に入れたのかしら・・律儀に届けようとか思ったあの時のあたしがものすごく恨めしい・・・」
「後悔は先に立たないわねえ」
「・・・・・・・」
アンナの最もな台詞にサチが撃沈する。
若旦那をどうにか撒いたらしいサチが部屋でベッドに突っ伏していた。
手帳を拾ってから早2回目の朝。サチの状況は手帳を拾った直後から一切変化なく―――、若旦那に付きまとわれていた。
「誰かこれドッキリですとか言ってくれないかしら・・・多分あたし怒らないよそれどころか大感謝よ・・」
「ドッキリでもなんでもなく現実の事実よサッちゃん。残念ながら」
「・・・・・・あ〜〜〜〜〜・・・」
ぐったりと横たわるサチ。床に座り込んだアンナはそれを見遣り、
「インドがどうのとかその辺の事情を話しても全く効果無いしね。すごいわーあれは」
「・・・・・・」
旅の途中だからとか、インドに行かなければならないからとか、こんな事やらあんな事やらしなければならないことがあるから、とか。
ありったけ並べたのだが、相手は『関係ない』の笑顔の一言で終了。
あまりにも明快な返答にサチの方が唖然としたものだった。
回想したサチが辟易した風情の溜息を吐く。
・・別に、そのような事情を抜きにしてもこちらの返事は変わらないけれど。
「あそこまで惚れられるなんて女冥利に尽きるわねえ」
「尽きない」
疲れた口調ながらも即座に返す。
「別にミロクだから結婚したらいけないってわけでもないだろうし」
「嫌」
「かなりの金持ちよ。結婚すれば玉の輿」
「嫌」
「最近センジュと話した?」
「・・・どうしてそこでセンジュ君が出てくるの」
初めてサチが顔を上げ、訝しげな目でアンナを見た。
アンナが別に、と言って続ける。
「そういえばここのとこ話してるの見かけないなと思って」
アンナがそう言ってから――少し間を置いて、サチが答えた。
「・・・・・一昨日も昨日も、それどころじゃなかったもの」








『―――― 一目惚れとはねぇ』

一昨日のアンナの台詞が、耳について離れない。


旅を始めてから短いとも言い切れない月日が流れて。
背は僕が彼女を少し見下ろせるくらいの差になった。彼女はそれに不満気な顔をするので、笑ったら額をべしりと叩かれた。
身長も髪と同じくらい早く伸びれば良いのに、と言う彼女の髪は出会った頃よりもずっと長くなっていて。
そう漏らしながら自分の髪を一房すくって玩ぶ彼女は、緑の景色にとても映えて。

妙に目が離せなかった事を覚えている。



「『若旦那』はここの街主の息子。どうりで人品が良かった訳だな。見た目は」
「・・・ふーん」
「街政治を担う一族としての腕は悪くないが、結構他人に無関心。・・・これ民衆を統括する立場としてどうなんだ?」
「・・・ふーん」
「よって若旦那のあの入れ込みようには驚天動地。―――というのが街の皆さんの反応だ」
「・・・ふーん」
「・・・・・・」
ジゾウの頭にぴしりと血管が浮き、躊躇いなく手の錫杖を振り下ろした。
「って!!」
目の前が一瞬真っ白になったセンジュが殴られた頭を押さえる。
「聞いてんのかお前――!!」
「聞いてるって!!ちゃんと返事してたじゃんか!!」
「あれが返事かあれが!?」
ったく、と言ってジゾウが座り直す。
しかしセンジュの顔を見て胡乱な顔になり、数秒それを見た後、
「・・・おいセンジュ」
「ん・・なに?」
「おまえそのツラやめろ」
「・・・なんだよいきなり?」
「なんだよじゃねえそのツラどうにかしろ」
そのツラってなんだ、とセンジュが言う前に、ジゾウがセンジュの両頬を盛大に引っ張った。
「いひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
「このうざいツラだよこの」
「いっ・・たいじゃないか!!なにすんだよ石頭!!」
「だれが石頭だ―――!!」

この街に滞在してから2回目の朝。
先日の大雨の影響で、川が増水し橋が流されてしまったらしい。
増水もまだ完全に収まってはおらず、橋の突貫工事も思うように進まない。あと1、2日はここに足止めを食う筈だ。
「・・・・・はぁ・・」
息を吐いてから、5秒程してセンジュが自問する。
――――なんだ今の溜息。
「いや、おまえそれ今日6、7回目だから」
ジゾウがセンジュの心中を読んだかのように言う。
「えっ嘘!?」
ジゾウに殴られて腫れている頭の痛みも忘れ、ばっと振り返る。
「お前って・・本当おめでたいよな・・」
唖然とするセンジュを横目に、今度はジゾウが長い溜息を吐く。
いや―――今回の様子を見る限り、一概に『おめでたい』とも言えないが。
ジゾウがそんな事を考えつつ口を開く。
「ミロク様、今どの辺りにいらっしゃるんだろうな」
ジゾウの話題の転換に、ぴくり、とセンジュの肩が動く。
錫杖を磨きながらジゾウが続ける。
「まあこの街は人出が多いから、魔羅が現れる心配はないがな」
そう言ってからジゾウがセンジュを見遣り―――、
再び錫杖を振り下ろした。
ごすっという音が響く。
「って―――!!」
「だからそのうざいツラをどうにかしろ!」
「なんだようざいツラって!!」
「おまえのそのむすくれた妙に不機嫌そうなツラだボケ!」
言われたセンジュが一拍置いて、自分の片頬を軽くつまむ。
「・・・・そんな顔してる?」
きょとんと言ったセンジュを見て、ジゾウがこいつダメだ、と呆れた溜息を零した。
しゃり、と錫杖の輪が澄んだ音を鳴らす。
「・・ここを発つ前にはそのうざいツラどうにかしとけ」
そう言い置いて、ジゾウは部屋を出て行った。
「・・・どうにかしとけって・・・」
残されたセンジュが一人呟く。
というか、うざいツラって今どんな顔してるんだろう僕。
この部屋に鏡が無いのが惜しい。――いや、なんとなく―――見たくない気も、したが。
ふと、今朝の食卓の光景が思い浮かんだ。
昨日も似たような事が繰り広げられた。
ぎゃーぎゃーとした鬼ごっこが延々と行われたらしい後、晩近くになって戻ってきたサチ。
今日もいつの間にか出て行ったきり、未だ戻ってきていない。
「・・・・・」
――――む。
ふと何かに気付いたように、センジュが自分の顔に触る。
「・・・・・・・」
『むすくれた妙に不機嫌そうなツラ』
先程のジゾウの言葉がぱっと浮かんで、しばし固まった後、―――ぐたりと首を折ってテーブルに頭を置いた。
テーブルにつけた右側の頬からやや温い温度が伝わる。
「・・・・・・・・」
半眼の視線は色鮮やかな庭園に向けられていたが、その実何も見ていなかった。
風が静かに吹き込む。テーブルの温度よりも冷たいそれが空気をさらった。
「・・・・・・・・」
気分が悪い、気がする。
少なくとも、良くはない。確実に。
空はこんなに晴れているのに、気分が比例しない。胸の中に、何か重いものが凝っているかのようだ。
何をこんなに沈下しているのだろう、自分は。
瞬間、今朝の光景がまた頭を過ぎった。
無意識に眉を寄せる。

―――自分の役目は、仏敵魔羅よりミロクを守り導く事。

「・・・・いや、だからなんなのさ僕」
独りぼそりと呟く。
それがなんだというんだ。当たり前じゃないか。
自分が課せられた事成すべき事はその一事のみ。
そんな事今更で、確認するまでもない。
―――なんでこんな事考えてるんだ僕。
思考を打ち切るように目を瞑る。
が、瞼はいくらも経たずに上がり、また虚ろ気な双眸が空を向く。
そしてぽつりと口が動く。
「・・・・・・・・別に」
確認するまでもないじゃないか、僕。

――――今更。

途切れ途切れに入ってくる風が、僅かにセンジュの髪先を浮かせる。
――空はこんなにも晴れやかに広がっているのに。


尚、凝った。









水音が響く。
街中にも拘らず大通りを貫くような水路が一本。水郷なのか、ここは至る所に水路が引かれていた。
絶え間無い水音が木陰のベンチに座るサチの耳にも涼やかで、サチは目を閉じてすうと息を吐いた。
「いい天気だねえサチ〜」
「・・・・・・・・・」
――――こいつさえいなければ最高に良い場所なのに・・・!!
またもや現れた若旦那に追われ宿を出てから、どのくらい経っただろうか。
闇雲に走り回った結果、サチは力尽きてベンチに倒れ、若旦那はしっかり横に陣取っていた。
ダメだ・・・今とてもじゃないが撒ける自身が無い・・・
ようやく呼吸を整え得たサチが内心で呻く。
直後、若旦那がついとベンチを離れた。
おや、と思ってサチがその背中を見、そして別方向を見回す。
今だったら逃げれるかも。・・でも足痛いし疲れてるしなあ・・・
そんな事を考えていると、不意に視界が一面青い色に染まった。
ぎょっとして目を丸くする。
「はいサチ」
顔を上げると、若旦那がコップのような容器を二つ持って、そのうちの片方をサチの眼前に差し出していた。
「・・・・・ありがとう」
きょとんとした表情のまま、なんとなくそれを受け取ってしまう。
「どういたしまして」
若旦那はにっこりと笑って再び腰を下ろした。
近くの屋台で買って来てくれたらしい。青い色の液体がなみなみと注がれており、手から伝わる冷たさが心地良い。
小さくいただきます、と言うとどうぞ、と笑顔で返された。それを受けて一口流し込む。
「―――おいしい」
「だろう?」
にんまりと若旦那が笑む。
「ここ特産の果物をブレンドして作ってるんだよ。この時期には道端のあちこちに出店が並んでるんだ」
そう微笑みながら説明する若旦那の顔を見て、
・・・・・悪い人ではないのだが。
そんな事を考えていると、突然大声が耳を刺した。
「若旦那が他人に物を奢った!?」
「ナニモンだあの娘!?」
「槍だ!!絶対槍が降るぞ!!」
若旦那がこの飲み物を買うのに利用したのであろう屋台の周りで、集まった人間が口々に叫び交わしている。
「・・・・・・・・」
サチはカップに口を付けた状態で硬直したまま、やっぱり飲まない方が良かった気がする、と俄かに思った。
だが次の、
「サチはどんな男がタイプなの?」
という台詞に、思わず飲料を噴き出しそうになった。
「どっ・・・どうすんのよそんなもん聞いてっ」
「愚問だなあサチ。もちろんサチのタイプの男になるべく努力するに決まってるじゃないか」
さらりと返され、ぐっとサチが詰まる。本当に愚問だ、余計な事を言った。
この人は言う事全てがストレートで本当に困る。やめてほしい。
「サチ顔赤い。かわいいなあ」
―――だからそれをやめろと・・・!
一層自分の顔が火照るのを感じて顔を逸らす。
「ホントかわいいな〜もう。でどんな男がタイ・・・」
がし。
「ん?」
台詞を途中で遮られた若旦那が振り返ると、一人の中年男性が若旦那の襟首を掴んでいた。
「若旦那!いい加減仕事にお戻り下さい!」
「ええ〜折角のサチとの逢瀬が〜」
「仕事が溜まりに溜まっているのです!」
昨日もこんな感じで引っ張ってってくれたんだよなあこの執事さん・・・
いかにも後ろ髪引かれてますという風情で若旦那がずるずる引きずられてゆくのを見ながらサチがぼへーっと回想する。
どうせなら『若旦那にこんな馬の骨なんぞ!』とか言って追い立ててくれれば良かったものを、きっちり自己紹介した後非常に慇懃無礼な態度で「何卒宜しくお願い致します」とか言われてしまった。何をよろしくしろと。
二人の姿が見えなくなって、サチが大きく溜息を吐く。
ベンチの背にもたれ、暮れかかった空を見上げる。
少しの間そうしていたが、どこからか威勢の良い声が耳に入って目線を下げる。
道を一つ挟んだ通りでは多くの店が所狭しと並び、その間を多くの人々が行き交っていた。店の者達も声を張り上げて客を寄せるのに余念が無い。
こんな所じゃ魔羅も襲ってこれないだろうな。
賑やかな街並みを目にしながらサチが思う。
この街なら一人でも大丈夫。
―――良かった。
そう内心で落としてから、はっとした。

――――――『良かった』?

「・・・・・・・・・」
サチが目を見開いて固まる。
から、と音が鳴った。ゆるりと顔を俯けると、手に持ったカップの中で氷が小さく揺れていた。
氷が大分溶けてきたが触れる温度はまだ冷たい。
ふと、綺麗な色だな、と透き通った色に視線を吸い込ませる。
だがいくらも経たない内にサチがまた目を見開かせた。
――――綺麗な青が、要らぬものを連想させた。
瞬間サチが眉を寄せて、目を細めた。
本当は目を瞑ってしまいたかったのだが―――目の前の色を、視界から完全に断ち切ることが出来なかった。
両手に抱えたそれを口にする事も出来ず。
サチは俯いてカップを見詰めたまま、そのまましばらく動かなかった。












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→後



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