吐く息が白い。

顔を上げ、空を見遣る。
入る視界には雲一つ無く、本日も良い日和になると思われた。
ただ、その反動か気温がひどく下がっている。
―――この寒さでは、道程ひどく難儀するだろう。
白んだ空を見はるかし、アシュラはそう思った。


木の枝に座したまま辺りを見渡す。
左にはがっしりとした造りの家屋と防風林が点在しているが、さほど密集しているわけでもない。右はところどころ土が露になった野原が広がっている。
比較的視界は開けている。さほどの危険もあるまい。
そう考えて再度首を巡らせた時。
―――ふいに、強い光がアシュラの目を刺した。
反射的に目を細める。
手をかざしてそちらを見遣り―――得心した。
――――ああ、湖か。
視線の先、さほど離れていない所に小さな湖があった。
といってもそれは波紋が立っているわけでもなく、その水面に揺らぎは一切無い。
一面凍りついているのだった。
眩しげに光を遮りながらも、アシュラは目を逸らそうとはしない。
この寒さで氷が張ったのだろう。今日はそれほどに寒気が増している。
――――それでも、



あの時ほどでは無いけれど。










「――――アシュラ、私こんなに寒い日に出会うのは初めてだわ」

「その台詞は今日4回目だ。行くぞ」
すぱりと切ると、多少むくれたような言葉が返ってきた。
「・・・だって言っても言っても言い足りないんだもの、いいじゃないの」
「言うのはいいが足を動かさないと遅れるぞ。―――シャシ」
斜めに振り返ると、やや不満気な顔のシャシがそこにいた。
「分かってるわよ、ちゃんと間に合うように行くわ。―――もう、ちょっとぐらい聞いてくれたっていいじゃない」
足元からさくりと音がする。土が凍っているのだ。歩を進める度に霜柱の折れる繊細な音が立つ。
「ちゃんと聞いている。それでもう少し早く歩いてくれたらもう何も言う事は無い」
さらりとした返答にシャシがむうと唸った。

―――遣いを頼まれての事だった。
至急の品を取りに行くように言い付かり、隣町までの道を急ぎ歩んでいた。
もっとも、隣とは言ってもかなりの距離を隔てている。結構な時間を歩んだ筈なのだがまだ山一つ分残っているのだ。
遣いを請け負ったのはシャシだったのだが、なんとなくアシュラも同道していた。
アシュラが小脇の荷物を抱え直す。
その時、アシュラの視界の端を強い光が射た。
手で光を遮って視線を怪訝に巡らせる。
―――ああ、湖が凍っているのか。
木立に囲まれた湖を眩しげに見遣ってアシュラが思った。
この寒さで氷が張ったのだろう、反射する光は普段の層倍のものがあった。
ここは初めての道では無い。見慣れている分確かに新鮮な光景ではあった。
しかしアシュラの中ではさほど感慨が湧く訳でもなく、ただああ凍っているから眩しいのか、と納得するにとどまった。
再びアシュラが歩みだそうとしたが、立ち止まっていたアシュラを訝しく思ったのか、アシュラの陰に位置していたシャシがひょいと首を伸ばした。
「―――まあ、凍ってるの!?」
その言葉にアシュラが振り返ると、口調をそのまま表情にしたような輝かんばかりの笑みがそこにあった。
「・・・遣いの途中だぞ」
咄嗟にそんな言葉が口をつく。
「わかっているわよ」
シャシが神妙に頷く。
アシュラが空を仰ぐ。日は中天を過ぎて、早くも傾きかかっていた。
この時季は日が落ちるのがひどく早い。歩調を早めた方がいいだろう。
そう思ってアシュラが視線を落とす、と。
横にシャシの姿は無く。
―――代わりに、迷わず湖に歩んでゆく後姿が見えた。
「・・・・」
アシュラが絶句する。
人の話を全く聞いていない。
「――――シャシ、危ないぞ!」
「ええ、大丈夫よー」
シャシが僅かに振り返って言う。頭まで被った分厚い外套から、アシュラとは対照的な明るい色の髪が零れた。しかしその姿が止まる事は無い。
何が大丈夫なんだ一体。
アシュラが頭を抱え一つ溜息を吐く。
それからどんどん道を外れてゆく背を追い始めた。
ほとりまで辿り着いたシャシは、一度そこで立ち止まった。
片足を上げ、そうっと凍った水面の上に触れさせた。ぽんぽんと2、3度確かめるように足を着かせる。
そうして一つ笑うと―――今度は体重を乗せた一歩を踏み出した。
後ろで見ていたアシュラがぎょっとして足を速める。
本当に人の話を全く聞いていない!
完全に湖の上に立ったシャシはゆっくりゆっくりと足を進める。ともすれば足を取られそうになるので、その足取りは慎重だ。
少し進んだ所で立ち止まり、空を見上げた。
ほうと息を吐き、青い視界を白い霞が流れる。
―――その時、
「っ!?」
重心が滑り、ぐらりと後ろに傾いた。
上を見上げた体勢そのままに頭から倒れ込み――――

「―――――だから、危ないと言ったろう」

険のこもった声が響く。
―――氷の床に落ちかけた体は、すんでのところでアシュラに抱き留められていた。
後ろからシャシの背を抱えたまま、アシュラが機嫌の悪そうな顔で溜息を吐く。
どう文句を言ってやろうかとアシュラが考えていると、前から声が漏れてきた。
くすくすと、笑っている声だ。
アシュラが一層眉を顰める。一体何がおかしいというのか。
そう言おうとアシュラが口を開いた瞬間、

「――――ほら、大丈夫って言ったでしょう?」

肩越しに振り向いたシャシが、にっこりと笑い。
自分を抱えている腕に手を重ね、軽く叩いた。

アシュラが虚を衝かれたような顔になり、言葉を失う。
「―――――」
返す言葉が見付からないまま、ただ唖然とするしかないアシュラ。
シャシは未だおかしそうに笑っている。
しばらくそうして、アシュラが長い長い溜息を吐く。

――――――端から、負け戦だ。

そう結論して、もう一度溜息を吐いた。
「・・・シャシ、もう行くぞ」
アシュラがシャシの体勢を直し、しっかりと足を着かせる。
「ね、アシュラ」
アシュラが手を離そうとした時、シャシがその手を掴んだ。
「ここ、帰る頃には融けてるかしら」
「・・・どうだろうな」
そのうち陽が落ちるから、今夜は凍ったままだろう。
しかし今日は晴天、明日はもっと気温が上がるだろうから保って今夜中か明日の朝までと言ったところか。
アシュラがその旨を告げ、
「どちらにしろ帰りは別の道を通るから関係ないが」
と付け足すと、シャシは目に見えて渋い顔になった。
通常使っている山道が雪で通れなくなった為、ぐるりと迂回する形でこの経路を使っているだけだった。
帰りには復旧しているはずなので、この道を使う必要は無い。むしろ急ぐ道程なのだ。帰りも同じ道を辿っては間に合わない。
「はあぁ、そうだったわね・・」
シャシががっかりとした顔をする。
「こんなに綺麗なのに、残念だわ」
光の散乱する足元を見つめてそう呟いた。
名残惜しそうに動かないシャシ。その様を見て、思わず言葉がアシュラの口をついた。

「――――そのうちまた見れるだろう」

その台詞に、シャシが目を丸くしてアシュラを見る。
しかし言葉を発したアシュラも―――自分が何故そんな事を言ったのか分からず、困惑していた。
シャシが人生初めてと言ったのはあながち間違いでもなく、これ程の厳しい冬の日は実際初めての事だった。
湖に人が立ち得る氷が張る程の寒さなど、この辺りにはある事では無い。
アシュラ自身が充分理解していた。自分の言葉には根拠など全くもって無い。
ただ、何故か。
―――そう口から出てしまったのだ。
・・シャシはアシュラの顔をじっと見た後、また湖に視線を移した。
そうして、口を開いた。

「―――そうね。きっとまた、見れるわね」

今度はアシュラが目を見開いた。
そう言ったのは自分だったのだけれど、彼女の台詞には断言するような確たる響きがあったので、逆にアシュラを戸惑わせた。
「あら、だって」
アシュラの胸中を読んだようにシャシが口を開く。

「アシュラがそう言うなら間違いないもの」

にこりと笑ってそう言った。
アシュラが唖然と口を開ける。
――――どういう根拠だそれは。
むしろ呆然とした体のアシュラだったが、当のシャシはにこにこと笑っているので、出しかけた言葉を飲み込む代わりにまた溜息を吐いた。
シャシの手を取り、ゆっくりと氷上を歩み始める。
ようやく土の上を踏んだ所でシャシがつと湖を振り返った。
それからアシュラの顔を見て、もう一度笑んだ。

「また、ね」










「――――おはよう」

「!」
アシュラがはっと我に返る。
下を見遣ると、ひらりと手を振りながら笑っている者が一人。
「早いね〜アシュラ君」
「・・・・・お、はようございます、センジュ様・・・」
どうにか挨拶を返し得たものの、その口調は非常に訥々としたものだった。
――――気配に全く気付かなかった。護衛を担う者として如何なものか。
思考に埋没していた自分を心の中で猛省するアシュラ。しかしその様子を読む事も無く、厚手の服に首を埋めたセンジュが声を掛ける。
「う〜今日も寒いなあ・・・晴れてるから余計寒いよね」
「・・・・・ええ」
アシュラが一時の空白を経てようやくそう答える。
その時、後方でもう一人扉から出てきた気配を感じ取った。
ちらりと見遣ると、コートに身を包んだサチが眠そうに目を瞬かせながら戸を閉めた所だった。
寒そうに身を震わせ、手にしたマフラーを首に巻こうと腕を上げた。
しかしその手が止まった。
横を見、覗き込むように背を曲げる。しばし訝しげだった目が丸くなる。
そのままそちらに足を踏み出した。――――湖の方へ。
「・・サッちゃん?」
その呟きを聞いてアシュラが下を見る。
遅れてサチに気付いたセンジュが、その背に視線を送っていた。
自分たちに声も掛けず、あらぬ方向へ歩き始めたサチを不思議そうな目でじっと見ている。
そして間をさほど置かずに、後を追い始めた。
予想内だったので、アシュラは木の上から動かずそのまま座っている。
湖のほとりでしゃがみこんだサチが湖面に手を伸ばすのが見えた。
程なくして追いついたセンジュがサチの上から覗き込む。
それからさして経たずに、「わ――――っ!?」とサチの声が響いた。目をすがめて見ると、片足を上げたままのセンジュの腕へサチがしがみついている。
続けて「氷薄そうだとか危なそうとか思わないわけあんたはー!?」というサチの怒声が聞こえてくる。
・・・凍っているとはいっても恐らく薄氷程度ですから、乗るのは危ないですよセンジュ様。
なんとなく何があったのかを読めたアシュラが心中で言う。
太陽を覆っていた雲が切れて、反射する光が強くなった。
視線の先の二人はしばし並んで湖を見ていたが、そのうちセンジュが後ろを振り返った。
その目が二人の様子を眺め遣っていたアシュラに据えられる。
気付いたアシュラが内心首を傾げるが、センジュがサチに何やら声を掛け、今度は二人してアシュラに手を振った。
いや、手を振ると言うより―――手招き。
・・・・馬に、蹴られたくはないのだが。
即座にアシュラが思ったが、本人達はお構い無しに手をひらひら動かしている。
果たしてどうするべきかと本気で逡巡するが、このままでは向こうからやって来そうだという考えがよぎり一層悩みだす。
いっそ逃げてしまおうかと思考し始めた所で、再度強い光がアシュラの目を刺した。
湖が清々しい程のきらめきでもってその存在を主張していた。
捉えられたかのようにアシュラの視線が吸い込まれる。
あの湖はこんなに小さくはなかった。
何もかもが比べ物にならない。未だ細部まで脳裏に描き出せるあの湖は大きくて、凍える程に寒くて。

それから。



『アシュラ』



――――温かな声と、それを紡ぎだす姿が。
蘇った瞬間、別の声がアシュラの耳についた。
しきりに手招きしていたセンジュとサチが何やら言い交わしている。
同時に頷いたかと思うと、こちらへ向かって駆け始めた。
・・・・・本気でどうするべきか。
アシュラが思わず背を向け降りようとした瞬間。
不思議な程の鮮やかさを伴って、声音が耳を掠めた。




『―――――また、ね』













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