疾風が頬を掠めた。
矢のような軌跡に吸い寄せられるように振り仰ぐ。
燕が一羽、快晴の空を舞っていた。



「センジュ君、どうしたの?」
「―――ん?ああ」
心なしか返答に少し間があったのにサチがやや首を傾げた。
「燕が」
「燕?」
センジュの視線の先をサチが辿るが、その姿はどこにも無い。
「どっか飛んでっちゃった」
「うん・・・」
そうみたいね、と思いつつサチが更に首を傾げた。確かに燕の影も形も見当たらない虚空。それなのにセンジュの視線は未だ動かなかった。
「ミロク様、バカセンジュ、こっちですよ」
「あ、はーい」
「はーい。・・・・バカってなに!?」
ジゾウに二拍遅れで文句を投げたセンジュがようやく足を踏み出す。仲間の背中を追いかけ、しかし尚一度だけセンジュは後ろを振り返った。
――――燕、か。






「――――なんでこんな所に井戸があるの?」
「お前・・・習ったろ?学校で」
はて?という顔をしたセンジュを見下ろした長身の体躯の男―――勢至菩薩のセイシは最大な溜息を吐いた。
センジュは眼前の井戸を物珍しそうに見遣った。何しろ今2人がえっちらおっちら進んでいるのは奥深い森の中で、蔓やら蔦やら何やらよく分からない植物が鬱蒼と茂る中を掻き分けていた最中、忽然と井戸が出現したのだ。
かなり古い造りのようで、褪せた鈍色の石が乱雑に接着され、上に向けて円い口をぽっかりと空けていた。興味を惹かれたセンジュが歩み寄る。
「近付くな」
縁に触れかけた手をぴたりと止めた。え、と振り返ると、お前ホントに授業聞いてねーな、とセイシが嘆息した。
「そりゃ『底無し』だ」
「底無し?」
腕を組んだセイシが首肯した。
「底が無い―――というよりかは、底がどこにあるのか分からない」
「へ?」
「その井戸に物を落とすと、あらぬ所から出てくるんだ。確かに井戸の中に落とした筈なのに、どこぞの庭の花壇の中から出てくる、料理の具材にまみれて出てくる、頭上から落ちてくる」
だから底無し。底が存在しないのではなく、落ち行く先を選ばぬ底。―――底無しに底が存在する所以の『底無し』の井戸。
「へー!すごいねえ」
「しかも落ちた物が返ってくる時間も状態も様々。翌日に朝食の中から出てきた櫛は何年も使われたかのようにボロボロで、頭上から箒が降ってきたのは落としてから3年後の事だったそうだ」
センジュが感嘆の声を上げる。なんと不思議な井戸だろう。
「なんつーかな、この森の中で『底無し』だけおかしいんだよ。こんな森の中にあるのに周りと比べて綺麗なもんだろ」
その言葉でセンジュが初めて気が付いた。緑に遮られ薄暗く湿った森で、周囲に転がる岩石には苔がびっしりと繁殖している。だがそれにも拘らず井戸自体には全く苔むした所が無かった。地面を零れるように這う蔓は井戸の壁を登ろうとはせず、鈍色の石とは僅かの距離を隔てて伸長方向を逸らし、逃げるように傍の小枝に絡み付いていた。このような場所のいわくつきの井戸をわざわざ手入れする者などいる筈も無い。積み重なる不揃いな石は確かに古いのに、森による風化を感じさせない―――この井戸は確かに何かがおかしいのだ。
「まあ落ちた物が返ってくりゃいい方だな」
「え?」
「『底無し』に落ちた物のうち、9割以上は行方知れずのままだ」
「・・・わぁ」
流石にセンジュが神妙な顔になり、井戸を振り返った。
「・・・その9割以上はどこに行ってるのかな」
「さあな。とにかく中に落ちたら最後、どこに飛ばされるか分からん。仏国土どころか遥か彼方の地に落ちてるかもしれんし、ひょっとしたら時間の波を漂流しているかもしれんな。ってホレ。そろそろ行くぞ」
セイシが踵を返してごちる。
「召集かかってんだ。ったくショウの奴め、こっちだって忙しいっつーのにわざわざセンジュ拾いに来させやがって」
「何があるんだろ?」
「さあな。詳しい事は何も聞いていないが、全土に召集がかかってるようだ」
センジュが目を瞠る。全土となるとかなり大規模なものに違いない。
ちなみに現在こんな密林を分け入っているのは近道だからだ。普段使う道では到底召集時刻に間に合わないというセイシの意見は間違ってはいないが、植物が入り乱れるように障壁を成す森を抜けるのは相当の労力を要する。単に「直線距離だから」という理由でこの道無き道を踏み分けるセイシは冒険者というよりは正直大雑把だった。
再び歩み始めたセイシに続こうとしたセンジュがふと瞬いた。
足を止めて振り返る。今、何かが聞こえたような。視線の先には『底無し』の井戸。
「・・・・」
少しの躊躇を挟んでゆるりと近付く。先程触れかけた縁に手をかけて覗き込んだ。
中は水が満ちていた。鬱蒼とした森の色を反映し、水面はただ暗い。ただ静かなだけの井戸に首を捻る。気のせいだったのだろうか?
その時センジュが目を見開いた。黒い水中に一瞬光が煌めいたのだ。思わず身を乗り出す。瞬間、再び掠めた音を今度は確かに捉えた。いや音というより―――声。
「あ」
先に聞こえた声が何を紡いでいたのかを把握し得る前に、自分が無意識に発した一文字がいやに大きく耳に刺さった。
気が付いた時にはセンジュの体は中空に投げ出され――――重力に従って落下した。
「・・・・・・・・・・・・・・」
セイシが唖然とした顔で口を開けていた。ふと後ろを向くと、離れた畑まで回り道をして呼びに行った同胞は背後にはおらず。
―――代わりに視界を埋めたのは派手な音と共に跳ね上がった水柱だった。
「・・・・・・・・・・・・・・なんというか」
暗い森に一人残された彼は、直面した非常事態に対して結構場違いな一言を零した。
「ある意味期待を裏切らない奴だよなお前・・・・・」




・・・・あー、もう朝かな。
気のせいだろうか、なんだか身体がいやにだるいような気がするのだが。寝返りを打とうと身を捩ると、全身に鈍い痛みが走り顔を顰めた。
「いって・・・」
どこか寝違えたろうか。しまった変な寝方したか?目を擦って重い瞼を億劫に開けた。
「・・・・・・・・」
真っ先に飛び込んできたのは、真ん丸な眼だった。
子供が自分を見下ろして、つぶらな両目をじいっとこちらへ向けている。出し抜けに凝視され、思わず固まった。
しゃがんだ体勢のまましばしぱちぱちと瞬いた子供は、ようやくもって第一声を発した。
「・・・・・・へんなカッコ」













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