「こぉら、センジュ君! 起きなさい!」
―――と、言いかけた口は「ぉ」の段階で止まった。
室内正面の壁に掛かっていた小さな時計を数秒見詰め、そして廊下突き当たりの置時計を見た。
一度、二度と見比べたサチは、
……あれぇ…?
こてんと首を傾げた。


……7分近く、ずれてる…。
眼前の長針を凝視しながら、どうやら自分の部屋の時計が狂っていたようだと結論付けた。
伸ばした四肢でベッドの面積をこれでもかと占領し、ついでに大口を開けているのは酸素まで独占しようとしているのだろうか。
せめて自分が溜息を吐くぐらいの分は残して欲しいと、奪われないうちに早々に実行した。
6時を過ぎたと思って起こしに来たのに、この部屋の時計の針はまだ6時前を指している。
昨日まできちんと時刻は合っていた筈なのに、何故唐突に、しかも大幅に狂ったのか。
…多分あれだ。ジゾウ君と、今眼前でぐーすか寝こけてる奴が修行だか何だかでものすごい地響き立ててたから、あれが原因に違いない。修業場もとい現場に隣接していたのが、まさに自分がさっき出てきたばかりの居間なのだ。
くそう、と舌打ちしたい気分で、恐らく原因の半分を見遣る。呑気に寝入っているのが腹立たしい。
改めて口を開こうとして、また止まった。
起床時間まで、あと5分と少し。
「……」
ベッドの端に腰を掛ける。廊下をぐるりと回って向こうの居間に戻るのは面倒くさい。
たかだか5分。されど5分。
別に、最近修行大変そうだから寝かせておいてあげようとかそういう意図ではない。
まあ5分だけ。
手持無沙汰に薄暗い天井を眺めていると、微かに風が吹き込んできた。一枚だけ嵌められた窓が半開きになっていて、センジュの頭上で薄いカーテンを揺らしている。
開けっ放しで寝たのか。今更安全がどうとかは言わないが、朝方は少し冷える。寒くはないのだろうかと考えていると、ばさっと音がした。
…蹴っ飛ばされた掛け布が、背後の壁をずるずると滑り落ちていた。暗黙の裡に返答してきた、訳が無い。通年で寝相が悪いだけだ。
斜めに座り直して、掛け布を被せてやる。なんとかは風邪引かないというから、要らぬ世話かもしれないなどと頭の中で補足しつつ。
枕の隅っこに申し訳程度載っかっていた頭が半回転し、とうとう枕とおさらばした。何やらもごもご呟いて、また寝息を立て始める。
仏様とは如何なる存在かと懊悩するのは労力の無駄だ。しかしそれでも遠い目になってしまうのは避けられなかった。崇高、荘厳とは一体。
カーテンが大きく揺らいだ。葉擦れが耳に心地良い。窓向こうの梢にはまだ影が落ちているが、1時間もすれば容赦ない陽光が降り注ぐだろう。
このところ暑くて堪らないが、風が日中も残ってくれれば幾分ましかもしれない。
座ったまま、ん、と身体を伸ばす。深呼吸すると、澄んだ冷気が胸に満ちた。
起き出した街の人々が今日の生活を始める頃合いだが、喧騒をつくるにはまだ早く、鳥のさえずりがとても近い。
長閑だ。頬杖をついたまま目を閉じる。
つと、不思議な感覚に襲われた。いや、襲われる、というのは違う。
気付かぬうちにそれが歩んできて、そっと手を繋がれていたような、ひっそりとした接触。
―――ある日外へ一歩出たら、時間が唐突に遡ったかのような錯覚を覚えた事がある。
牛乳配達に行こうとしているのに、自転車のハンドルではなく、ランドセルの紐を握っているような。
取り立てて何も変わった所は無かったのに、どこかが記憶の中の風景に似ていたのだろうか。ひどいくらい赤に染まった朝焼けに偶さか惑わされたのかもしれない。
奇妙な心許無さを覚えて、普段より強くペダルを踏み込んだのはいつの事だったか。
そう、あんな感じ―――
とりとめのない追憶から漸う抜け出して、瞼を開いた。

……えっ?

違和感。
穏やかな空気は変わらない。けれど、奇妙な緊張が生まれているのを感じた。
視界を閉じた一瞬の間に、世界が切り替わってしまったような。
が、そんな訳は無い。これはいつもの世界で、自分はいつも通りに起きて、いつも通りに呼吸している。
なのに、理由の分からない不安がある。それは先程回顧した、非現実感の中を進む覚束無さとはまた別のものだった。
似た景色を見た事があっただろうか? いや、こんな何の変哲も無い光景がいくつあったかなんて、逆に拾い上げる方が難しい。
早朝の冷気が澄んでいて、葉擦れの音や鳥の声が聞こえてきて、薄暗い部屋を風が柔らかに撫でていて、彼がベッドの上で眠っていて―――


あ。


―――気付いてしまった瞬間、背中を悪寒が駆け降りた。
違う。
頭の中で否定する。全然違う。
だって、うちは和室で、ここは床が絨毯張りで、障子なんか無くて、あの部屋はもっと開けてて、こんな丸テーブルなんか無かったし、庭に椿の木があって、風がよく抜けて、それで、それで―――
シーツが真っ白で―――
ぐらりと身体の芯が傾いだ。
心臓が痛い。どうして。違う。違う。違、う。
凍えた神経を無理矢理復帰させて、半身を乗り出す。が、上手く動かない。
ぎこちない動作で、すぐ眼下に臥しているひとの首元に、そっと、そっと。伸ばした手の甲を当てた。
鼓動。
指から伝わる規則的な拍動に、細く息を吸って。長く、長く吐き出した。

何を、しているのだろう。

―――彼がアシュラとの戦いで昏睡状況に陥った2ヶ月間弱。
看病しながら、時折手を伸ばして。脈を確認して、呼吸しているのに安堵して。
そうして、このまま目覚めないのではと、怯えた。
彼は仏でありその身体は仏像だから、人間の基準は当て嵌まらないのかもしれない。
けれど肺に合わせて胸が収縮しているし、肌は温かい。人の造りとどこが違うのか分からない。
怖かった。1日1日が。
…状況を脱したのはもうずいぶん前の話だというのに、あの出来事を全く乗り越えられていない事実がたった今判明した。
気持ちが悪い。まだ悪夢に半分浸かっている気分のまま、己に呆れ返った。
悟りを得たら、こんな怯懦を抱えなくなるのだろうか。
目に映る何もかもを受容できるようになって、心が揺らぐ事もなくなるのだろうか。
…そうではない、とすぐに自問を否定した。
多分それは違う。

傷を負って、血が流れる事を受け入れるのは違う。

「―――つめたい」
―――反応が鈍くなっていたのが幸いして、飛び上がらずに済んだ。
サチが完全に硬直してしまった傍で、再度寝惚け声が漏れた。
「ゆび、つめたいよ……」
「…………まだ、涼しいから」
イヤそういう事じゃない。己が台詞に心中で首を振る。
ごめんなさい、と手を引きかけ、
「…ちょっと」
「…つめたい…」
伸びてきた指に絡め取られて、横向いた頬の下敷きになってしまった。
「じゃないわよなんでそうなるのよ、ちょっと」
「んー…」
「寝るな。離す」
びしっと頭に一撃入れると、唸りながらのろのろ半身を起こした。
しかめっ面で片手を首に当てている。寝相の悪さがたたって寝違えたのだろうか。そしてだからもう片方の手を離せ。
そのまま瞼が落ちかけたので、もう一発お見舞いした。いかにも渋々という体で瞳が半分だけ覗く。朝に弱いという訳ではないが、決して寝起きが良いタイプでもない。この辺からして非常に人間らしかった。
「ほら、起きて。着替え」
この仮拠点に落ち着いてから、皺になるから寝る時は着替えろと懇々と言い聞かせたのがようやく身に付いてくれていた。
生返事して、シャツの襟首を掴んだまでは良かったが、
「……着替えさせ」
て、の一文字が出るか出ないかのところで、掴まれていた手を引き剥がし、そのまま三発目を落とした。
「…なんでおんなじとこばっか…」
前頭部を押さえるセンジュに無言で立ち上がり、スカートの裾を払った。
先程の迷子のような心持ちはどこへやら、一気に現実に引き戻されたようだ。代わりに疲労感と脱力感がない交ぜになって、ぐったりする。爽やかな朝だったのに。
「着替えたら顔洗って、早く来てちょうだい。もう朝ご飯よ」
「あ、サッちゃん」
開け放したままの扉の所で振り返る。
「駅向こうの通り、今日…大きな市が、立つみたいだよ」
「へえ」
そういえば、昨日は大きな荷を引いていく人が多かった。よく思い返してみれば、皆同じ方向へ向かっていたようだ。成程、あれは市の準備だったか。
センジュはまだ目が覚めきっておらず、訥々と言葉を繋いだ。
「ん、行ってみない?」
「え?」
ゆるりと笑う男を見遣る。
市。気になる。それこそ近所の住民から、あの通りで年2回催される特別市は珍しい品が多く見世物も沢山やってくるから、ぶらりと回るだけでも十二分に楽しめるのだと聞いた事がある。
いつもなら一も二も無く賛同しているかもしれない。いつもなら。
「……や、課題残ってるし、いいわ」
課題、というか、修行。
仏達から課されるそれは実に多岐にわたっていて、体力を使うものであったり、頭を使うものであったり、理論的なものであったり、儀式色が強いものであったり。
ちなみに結構各々の好みに拠る部分も多く、例えば比較的好戦的な性格の者だと体力もの中心になる。…好戦的な仏というのも、どうだという話だが。
現在抱えているのは、公案1000題。ニョイリンからの出題である。
何故日本の禅問答、と訝りつつ、この阿呆みたいな量には他意が含まれているのではと勘繰ってしまう。
しかし上手く言い包められたというべきか、売り言葉に買い言葉というべきか、とにかく受け取ってしまった。ので、やるしかない。
ひらひらと手を振ると、えー、という声が返ってきた。
「そっちこそ修業は。ジゾウ君とやってるんでしょ」
「あぁ。うーん…今日は早めに切り上げってことで」
「あ…っ、あんた達、1週間スペシャルメニューとかなんとか始めたばっかじゃなかった!? 昨日!」
「うん、中断ってことで」
2日目から早くも!
この仏に修行を嫌がる姿勢はなく――座学は除く――むしろ普段進んでそれを行うのだが、適当な時は本当に適当に過ぎる。こだわりが無いと言えば聞こえは良いが、メニューを組んだジゾウ君の苦労を多少なり汲んでやって頼むから。
「まあまあ。ちょっと抜け出すだけだって」
「抜!? 抜け出すの!? あたしを巻き込まないでよ!」
こちらとて、うちの設問出題者に何を言われるか分かったものではない。おまけにこいつ絡みだし。うわホントに何がくるか分からない勘弁して。
嫌な予感が順調に累積されていくのだが、
「まあまあ。きっと楽しいよ、ね」
ただにこにことのたまうものだから、怒りが次第に呆れへと移行してきた。ふざけんなと指していた人差し指が、ゆるゆる下がっていく。う、まずい。
「じゃ、お昼前に出よ。楽しみだねぇ」
「……」
決まってしまったらしい。そして己の運命も決まった。
「………………………袈裟以外の服を着て」
せめてもの抵抗に対し、はーい、の応答は頷いているのか舟を漕いでいるのか判別し難い。
ああ、一体どうなるんだろうこれ…。そんなサチの心情など露知らず、センジュは髪が跳ね放題の頭を掻きながら欠伸を噛み殺している。
「……とりあえず、早く起きて」
頭が痛くなってきた気がして、踵を返した。
「あぁ、サッちゃん」
まだ何かあるのか、と眇めた視線を送る。センジュは寝惚けた顔に、へらりと笑みを刷いた。

「おはよ」

たった一言。
いつもなら、今更起床の挨拶なの、と毒づくだろうその一言に。
今朝に限っては目を瞠り。
この瞬間初めて、消えたと思っていた凝りは、ただ奥底に圧し沈めていただけだったと気付いて。
同時に、
ふわりと霧散した。

「――――ええ、」

「おはよう」



「………」
真ん丸に開いた目をぱちぱちと瞬かせる。
脳内をぼんやりと覆っていた霞が綺麗に吹き飛ばされ、すっきり起床。爽やかな朝、おはよう僕。
誰ぞの笑顔で覚醒するというのも珍しいかもしれない。
「………」
…何か変なこと言ったっけ?
変な、という表現もおかしいが、ついそんな風に考えてしまう。
あれは、あれだ。えっとそう、あれ。
……あんなのを、花のかんばせ、というのだ。きっと。
流れ込む風がひやりと心地良い。さっきまでは少し肌寒いくらいだった、けれど。 部屋に残されたセンジュは、ベットの上で無造作に眦を擦った。
そんな事をしなくても、目は冴えている。



修行をサボるなんてきっと怒られるだろう、と。
それに対して、まあこんな日もあっていいかとどこかで楽観してしまっているのは、今現在の気分のせいで。
些細な事で簡単に浮き沈みさせられる。
「やぁね、ホント」
呟きに反して、廊下を行く足取りは軽い。
通り過ぎた時計は、6時2分。









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